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伊達移住者の体験記 > 伊達暮らし39 坂の上の雲」人物点描
 伊達市に移住をされた方に、日々の様子を綴っていただくコーナー。

 横浜から移住された池田武史さん。愛読書の司馬遼太郎「坂の上の雲」の人物評の最終回で、印象に残る人々8人についてご紹介いただきました。

 

「坂の上の雲」の中に登場する人々とそのエピソードについて、何回かエッセーで述べさせてもらったが、この他にも心に残る人々がいる。その人たちについて点描させてもらう。


◆ 陸 羯南(くが かつなん)
 正岡子規のよき理解者であり、彼の物心にわたる生活全般を大いにバックアップした稀有な有徳人。
 羯南は子規のおじにあたる加藤恒忠と親交があり、子規の上京に際し、フランスへの赴任で面倒を見れなくなってしまった加藤恒忠から子規の世話を頼まれる。
 羯南は子規を自分の経営する新聞社の社員に雇い、生活が立ち行くようにしたり、子規が推し進めた短歌・俳句の改革の発表の場を与え、またその改革論を励ました。
 子規は晩年に激痛を伴う結核性カリエスを患い苦しんだが、羯南は枕元でその身体をさすり、「痛かったら、声をあげていいんだよ」と語り掛け、終生慈父の態度で接した。
 この人の子規への接し方や援助の気持ちを思うと、人の優しさを感じずにはいられない。

◆ 明石元二郎(あかし もとじろう)
 この人がヨーロッパを舞台に行った日露戦争時の後方攪乱活動は一軍の働きよりも大きかったかもしれない。帝政ロシアは、、極東での戦争を進めながらも、周辺国や内部からも革命の火の手が上がり、それを鎮めるにも躍起となっていた。明石は、参謀本部からの軍資金100万円(当時の国家予算は2億5千万円)を基に多くの反ロシア勢力を支援して、帝政ロシアの崩壊を目指した。明石の戦友は、ロシア人であり、ポーランド人であり、フィンランド人であった。
かれはスパイとしてヨーロッパ中を駆け巡り、時にロシア官憲から付け狙われたのだろうが、「一見愚の如し」というスパイらしからぬ相貌が助けたーーー田舎おやじのような風貌が、まさか日本陸軍の大間諜とは、みんな思わなかたーーーのか命を全うした。

 明石は軍人である以上、野戦攻城の人であることを望み、敵国の内乱を引きおこすための仕事などを痛快とはしなかっただろう。終戦後もその鬱屈した思いは持っていたようだ。

◆ 大山巌(おおやま いわお)   
 この人のおおらかな態度は、本当に薩摩型将帥の典型なのだろう。
 満州で全陸軍を率いて、総参謀長の児玉源太郎との名コンビにより、日本を勝利に導く。作戦の実態は全て児玉に任せて、自身は、「もし負け戦になったら、自分が指揮をとる」という気持ちに徹した。
 黒溝台戦で司令部が大混乱に陥っているとき、作戦室に入ってきてのんびりした調子で「児玉サン、朝からだいぶ大砲(おおづつ)が聞こえるようですが、一体どこですか」とやったものだから、思わず若い士官などは、クスリと笑い、場の空気が和んだ。この人の持つ空気というか人徳なのだろう。
 満州で当時珍しかった白菜を研究して、漬物にしたらいいと話すシーンもほのぼのとしている。
 内地に残された新婚の士官の妻が、新聞に寄せた短歌「許しませ 襟に澆(かか)れる暈(しみ)のあと おもひ焦(こが)れて泣く涙なり」(若い出征将校の新妻が、縫い物をしていて襟に涙がこぼれました。それが点々としみになった、の意)に感動して、漢詩を作ったりするシーンも人柄がにじみ出ている。

◆ 小村寿太郎(こむら じゅたろう) 
 日向の飫肥(おび)藩の秀才というイメージを持っていたが、「坂の上の雲」を読むと、なかなかのきかん気の才子という感じである。江戸期の日本は、地方の小藩の藩校に学ぶ秀才が多かった。飫肥も小さな城下町で、とても美しいところだ。ここで育ち、外務官僚になり、日露戦争のこの時は、外務大臣としてことに当たった。一番の事跡は日露戦争終了後、日本の全権として、ロシア全権のウィッテとのポーツマスにおける終戦交渉を取りまとめたことだろう。

 以下は小村の向こう気の強い所がよく出ているシーンである。
 駐清国の公使として、万寿節の賀宴に招かれた折、清の宰相李鴻章がちょっかいをかけ、「お見受けしたところこの席におられる各国の紳士・淑女の中で閣下が一番小そうございますが、貴国ではみなさん小さいのですか」と云われたときの返答がふるっている。李鴻章は非常に恰幅のいい大男である。
 「たしかに日本人は小そうございます。閣下のような大きなものもおりますが、我が国では、うどの大木とか大男総身に智恵がまわりかね、と申して、そのようなものには国家の大事は託さないのです」
 インディアンのイロコワ族の話やアイヌの熊の生け捕り法の例え話も印象に残るものだ。

◆ 秋山好古(あきやま よしふる)


 海軍参謀の秋山真之のお兄さんで、日露戦争当時は陸軍騎兵少将で満州に出征した。最終的には陸軍大将で、四国松山の中学の校長を務めたりした。
 日本の騎兵の育ての親といわれ、満州の野では、ロシアに比べて劣弱な騎兵を率い、派手な騎兵戦は避けて、一歩も引かぬ陣地守り抜き主義を通した。明治のこの時代「最後の古武士」ともいわれ、悠揚せまらざる風格を持った人だったようだ。ご飯の代わりにお酒が必要な体質なようで、満州の野で戦の最中も常にお酒を離さなかった。
 日露戦争の直前に、ロシアの招きでロシア陸軍の演習の見学に出かけた時の、ロシアの騎兵士官たちとの交流が素晴らしい。「われ快飲せり」の言葉に、ロシア将校との気持ちの通じ合いが出ている。まだ騎士道精神のようなものが互いに残っていた時代なのだろう。

◆ 林 董(はやし ただす)
 日露戦争前の日英同盟交渉時には駐英国公使として大活躍して、締結に持ち込んだ。
 下総国佐倉藩の蘭医佐藤泰然の子として生まれ、後に幕府御典医林洞海の養子になる。幕末には幕府留学生としてオランダに留学し、戻って榎本武揚に従い函館戦争に参加した。この時榎本は、自分たちの行動について国際的な理解を得ておこうと思い、行動の本旨を林に英訳させた。これを読んだ英国公使パークスは「榎本軍の中に英国人がいる」と思ったほど巧みな英語だった。
 林この時19歳であった。事敗れて榎本らと拘留生活を送ったが、時の官軍参謀黒田清隆は、林の英語力を東京の新政府で役立てようと思い、そのように林にすすめた。かれは「みなと一緒に釈放されるのならいいが、自分だけならお断りする」と云った。
 このことが林 董という人の生涯の信用の基になっていったらしい。榎本軍への参加などと考え合わせると、一本芯の通った男だった。
 日英同盟交渉時には、元老の伊藤博文のよこやり的な介入も上手にさばいて、英国との粘り強い交渉をまとめた。ちなみに秋山真之は英国駐在のときに、林と接触して国家を考える上での薫陶を大いに受けた。

◆ 島村速雄(しまむら はやお) 
 この人も度量の大きな、奥ゆかしい人である。土佐の生まれで、非常な秀才で、その智謀は底が知れないと云われた。
 日露戦争のとき聯合艦隊参謀長を務め、旗艦三笠では秋山真之の上司であった。
 山本権兵衛の判断で「東郷には島村をつけておこう」ということで、東郷が統率を、島村の智謀が作戦を担当ということになったが、参謀に秋山真之が加わることになったことを島村はとても喜んだ。島村の考えでは、作戦は天才がやるべきで、階級の上下の問題ではない。
 戦後、聯合艦隊参謀長であったため島村の名声は上がったが、彼はいちいち否定していった。
 「自分は日露戦争には、開戦から旅順陥落まで聯合艦隊参謀長を務めました。世上、日本海海戦までこの島村がやったように云われてますが、あのときは私は他に転じておってその職にはなかったのです。何にしましても日露戦争の艦隊作戦はことごとく秋山真之がやったもので、旅順口外の奇襲戦、仁川海戦、あるいは三次にわたる旅順閉塞、第二軍の大輸送、ついで日本海海戦に至るまでの作戦と遂行はすべて秋山の頭から出、かれの筆によって立案されたもので、その立案せるものはほとんどつねに即座に東郷大将の承認を得たのであります」

◆ 立見尚文(たつみ なおぶみ)
 第八師団の故郷の弘前では、日露戦争後、冬のいろり端で語られるのは黒溝台での激戦の話であり、師団長立見尚文のことであり、彼がいたからあの戦いに勝てたのだということだ。
 立見尚文は弘前で永く「軍神」として慕われている。
満州の黒溝台での戦いは、ロシアのグリッペンベルグ大将の怒涛のような猛攻の前に日本軍は大混乱して、各所で悪戦苦闘を続けた。
 そんな中に日本軍は、なけなしの虎の子の弘前の第八師団を投入した。日本最強の師団を率いたのが立見尚文である。この師団も三方を敵に囲まれ大苦戦の中にあったとき、立見は、語り継がれる檄を飛ばした。
 「わが師団は、開戦以来、日本内地に控置され、前線に出ることが最も遅く、そのため歴戦の他師団からみると、無傷である。いまはじめて敵に見えてこの為体(ていたらく)はなんということであるか。戦は負けぬと思えば負けぬものだ。他師団を見よ。どの師団も五、六度の大会戦を経てすでに開戦当時の将校にして生き残っている者は数えるほどしかいない。わが弘前師団はすでに日本一の精強をうたわれながら、これしきの戦いで苦戦をするとは何事であるか。奥州の健児たる者、他師団にひけをとるまいと思えば、他師団が五、六度の会戦で受けた損害を一度で負うべし。その覚悟で戦うべし」と云ったとき、立見は跳ね上がって地団太踏み、ついに壇にしているシナ長持のフタを踏み破ってしまった。

「坂の上の雲」が来年NHKでスペシャルドラマとして放送予定と聞く。
 楽しみの反面、文字の世界で作られてきた司馬遼太郎の世界のイメージが映像の世界で壊されないかという不安もある。文字の世界では、あるストーリーを述べているところへの登場人物が出た時、その人物について一旦脇にそれて、充分に語りつくして豊な人物像を作りながらストーリーを展開している。読者は、その人物についての生い立ちや、人となり、携わった仕事やそのときにとったスタンスなどの背景情報を知ることで物語の理解が深まる。
 また、司馬さんが描きたかったのは、戦争そのものではなく、過ぎ去りし明治という時代、そこでの日本人というもの----国難に対処するために智恵をしぼる人々----だったのだと思う。
 映像の世界では、どうしても戦闘シーンなどに目が行き勝ちになるので主題がずれなければよいのだが。
 いずれにしても「坂の上の雲」の中に描かれている世界は壮大で、登場人物も多彩である。いろいろな読み方、感じ方があるだろうが、わたしが感じたところ、ほろりと来たところを数回のエッセーで述べさせてもらった。「坂の上の雲」については、これで一旦筆を置きたいと思う。

08-3-9記
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