ペットバイタブル
   きたスロ検索
きたスロ メニュー
リンク

北のスロウライフ リンクについて
リンクについて...


Created by upDate.

Made on Mac.


伊達移住者の体験記 > 伊達暮らし35 山本 権兵衛
 伊達市に移住をされた方に、日々の様子を綴っていただくコーナー。

 横浜から移住されてきた池田武史さん。
 愛読書の一つ、司馬遼太郎「坂の上の雲」の中から今回は山本権兵衛をピックアップ。
 山本権兵衛は、若いときは随分暴れん坊だったようですが、軍政を担当してからは、明治海軍の設計とその推進を一途にやったようです。彼の上司だった西郷従道との名コンビが生み出した大きな足跡を、紹介してくれました。


 山本権兵衛(やまもと ごんべえ)は明治海軍の作り手、オーナーと云われている。彼の海軍作りにかけた思いや逸話を「坂の上の雲」の中にたどってみたい。




 日本の地理的情況と海軍の意味についての一文である。
 *日本国の地理的特徴は、まわりが海で囲まれていることであろう。敵の海軍力は、日本の任意の海岸から攻め入ることができるし、場合によっては、かってペリーの艦隊が江戸をおびやかしたように、東京湾深く入ることもできる。
「――もし日本に」と、当時、ロシアの海軍部内でいわれた。日本の海軍が消滅すれば露国(われわれ)は二十隻程度の軍艦をもってこの列島を包囲し、日本に手も足も出させぬようにして*城下の盟(ちかい)をちかわせることができるーーーというものであった。
日本は、海軍を強化しなければならない。*
   *城下の盟:敵に城まで攻め込まれ降伏すること

 しかし日本には金がなかった。
 明治30年度の総歳出は軍事費が55%にも上り、国民にとっては飢餓予算ともいうべき時代であった。
 日清戦争の段階での日本海軍は、海軍とは名のみの、ぼろ汽船に大砲を積んだだけといってもいいような軍艦が多かったのだが、戦後10年の日露戦争直前には巨大海軍を作り上げた。その中身は、第一級の戦艦6隻と、第一級の装甲巡洋艦6隻をそろえ、いわゆる66制による新海軍を作った。これをやってのけた企画者兼推進者は、ただ一人の人物であった。山本権兵衛である。

 *山本権兵衛は、戊辰戦争の頃は薩摩の陸兵として従軍して、北越から東北へ転戦した。
 明治になり、海軍兵学寮に入り、ドイツの軍艦ライプチッヒ号に預けられた期間中に任官した。その後軍艦の分隊長をしたり、副長をつとめたり、輸入軍艦の回航委員をつとめたり、艦長に任じられたりしたが、彼の運命と日本海軍の運命が変わるのは、明治20年、36歳で海軍大臣の伝令使(副官)になってからである。当時、海軍少佐である。
 このあたりから、軍政を担当した。もっとも担当中も、高雄や高千穂の艦長として海に出たりしていたが、いよいよそういう彼が陸に腰をすえるのは、明治24年、40歳、海軍大佐のとき、海軍大臣の「官房主事」というものになってからである。
 明治海軍のおもしろさは、山本権兵衛が一大佐か少将の身で大改革をやり得たことである。権兵衛が海軍省の陸上勤務になって最初に仕えた海軍大臣は、西郷従道(さいごう つぐみち)であった。あとでも従道が上司になる。従道と権兵衛とは、いわばコンビである。

 従道は、西郷隆盛の弟である。幕末にあっては、隆盛のそばで倒幕運動に携わったが特段目立つ存在ではなかった。維新後に本領をあらわした。明治のジャーナリスト池辺三山は明治の三大政治家の一人に数えているが、人物があまり大きすぎたのと、みずからは一見阿呆のようにかまえて自分の功績を晦(くら)ますといったいわば老荘的な雰囲気があったため、十分な評価が、同時代にも後世にも与えられていない。

 人物が大きいというのは、いかにも東洋的な表現だが、明治も終わったあるとき、ある外務大臣の私的な宴席で、明治の人物論が出た。
 「人間が大きいという点では、大山巌(おおやま いわお)が最大だろう」
と誰かがいうと、いや同じ薩摩人ながら西郷従道のほうが、大山の五倍も大きかった、と別の人が言ったところ、一座のどこからも異論が出なかったという。もっともその席で、西郷隆盛を知っている人がいて、
「その従道でも、兄の隆盛にくらべると月の前の星だった」
 と云ったから、一座の人々は西郷隆盛という人物の巨大さを想像するのに、気が遠くなる思いがしたという。隆盛と従道は前記のとおり兄弟だが、大山はいとこにあたる。この血族は、なにか異様な血を分けあっていたらしい。*


 余談ながら、ここに登場する大山巌という人も大きな人物である。陸軍の総帥として満州軍を率いてロシアのクロパトキン将軍と戦ったが、実戦の作戦は全て児玉源太郎に任せ、「もし負け戦になったら、そのときはわたしが指揮を取りますから」とのみ云っていた。

*薩摩型将帥というのは、上記三人に共通しているように、同じ方法を用いる。まず、自分の実務のいっさいを任せる優れた実務家を探す。それについては、できるだけ自分の感情と利害を抑えて選択する。あとはその実務家のやりいいように広い場を作ってやり、何もかも任せきってしまう。ただ場をつくる政略だけを担当し、もし実務家が失敗すればさっさと腹を切るという覚悟を決めこむ。かれら三人と同じ鹿児島城下の加治屋町の出身の東郷平八郎も、そういう薩摩風のやりかただった。
 西郷従道には、この傾向がいっそう強かった。かれは、明治18年から31年までの期間、海軍大臣を三度つとめたが、海軍のことはなにも知らなかった。かれは当初陸軍中将だったのだが、そのままの身分で海軍大臣になったのである。
ところが、日清間の雲行きが怪しくなったため、海軍を充実しなければならない。そこで山本権兵衛を起用し、
「なにもかも思うとおりにやって下さい。あんたがやりにくいようなことがあれば、私が掃除に出かけます」と言い、権兵衛の改革が急激で八方から苦情が出た時も、西郷はその一流のやりかたで適宜に政治的処理をやってのけた。*


 軍艦の建艦計画を作り推進実行していくのをハード面の改革とすると、その軍艦を運用していく組織や人事面の刷新はソフト面の改革といえる。
 以下のことは、山本権兵衛という人の面目躍如たるところで、不退転の気持ちが伝わってくる。

 *日清戦争の前、権兵衛がやった最大の仕事は、海軍省の老朽、無能幹部の大量首切りだった。
「大整理をして有能者をそれぞれの重職につける以外にいくさに勝つ道はありません」と、西郷従道に献言した。
 そのころの海軍の将官や佐官はひどい連中が多く、薩の海軍といわれるように薩の維新における功績により、単に薩摩人であるということだけで将官や佐官の階級をもらっている者が多く、その連中は軍艦の運用どころか構造も知らぬのに高給を食(は)んでしかも重要な職についていたりする。

 また老朽者のなかには旧幕府海軍の系統の者がいる。維新早々は、新政府に海軍技術の持ち主が少なかったためかれらが重宝された一時期があったが、その後の世界の海軍の進歩についてゆけず、いまだにオランダ流の帆船の操法しか知らない将官や、その後に出現した水雷艇などの肉薄兵器についての知識をまったく欠いている佐官などが多い。
 権兵衛にとってはすべて上官もしくは先輩たちである。かれはこれらのリストを作った。なんと将官と佐官とを合わせて96名という人数に上った。それを主管大臣の西郷従道に見せると、
 「さて、山本サン」
と、さすが大腹(たいふく)なこの男も、たじろいだ。なるほどこの連中は技能こそないかもしれないが、維新草創の功労者であることは間違いない。

 「功労者は、勲章をやればいいのです。実務につけると、百害を生じます」
と権兵衛は譲らない。権兵衛の計画では、これらが去ったあとの空白に、正規の兵学校教育を受けた若い士官を充当し、実力海軍を作りあげるつもりだった。
「恨まれますぞ」
「むろんかれらは恨むでしょう。しかし国家がつぶれてしまえば、なにもかもしまいです」西郷は、許した。
 権兵衛は、この首切り仕事を西郷には押しつけず、みずからやった。該当者を海軍省の副官室に呼び、かれみずから宣告した。このとき権兵衛は一大佐であったにすぎない。

 とくに薩摩出身の先輩はうるさく、
「小僧(にせ)、おはん、僭上(せんじょう)越権ではないか。一大佐の身で中将少将の首を切ってよいのか。国家の秩序もなにもあったものではない」
と、卓をたたいて怒号する者もあったが、権兵衛は屈しなかった。懐中に短刀をしのばせ、たださえ凄味のある目つきを、豹のように光らせて容赦なく宣告した。「薩の海軍」は、薩人の山本権兵衛の手で事実上ほおむられたと云っていいであろう。*


 実は次のくだりを読むと、いつもほろりと来るのだ。明治の人は腹がすわっていたというか。

 *戦艦三笠を英国のヴィッカース社に注文したのは明治31年であったが、しかしこの時期すでに海軍予算は尽きてしまっており、前渡金を捻出することができず、権兵衛は苦慮した。
 このころ権兵衛は47歳で、海軍大臣をつとめている。
 当時、西郷は内務大臣をしていた。ついでながら西郷という人は、文部卿、農商務卿から、海軍大臣、内務大臣と、大蔵大臣をのぞいてはほぼ大臣のポストはぜんぶ経験したが、総理大臣だけはやらなかった。
 権兵衛は、万策つきた。西郷になにか智恵はないものかと訪ねると、西郷は事情を聞き終わってから、
 「それは山本サン、買わねばいけません。だから、予算を流用するのです。むろん、違憲です。しかしもし議会に追及されて許してくれなんだら、ああたと私とふたり二重橋の前まで出かけて行って腹を切りましょう。二人が死んで主力艦ができればそれで結構です」
 三笠は、この西郷の決断でできた。
 西郷と権兵衛とは、海軍建設においてはそういう関係だった。*

 余談ながら、「ヴィッカース社」とはメカ屋にとって懐かしい名前だ。金属の硬さの尺度のヴィッカース硬度発祥の会社である、と思われる。(インターネットで調べたが確証は得られていない)
 そこで「三笠」が作られたのだ!と知ると、思わぬ結びつきを感じた。

 西郷と権兵衛の関係をみると、「優秀な部下がなんでも仕事をこなしてくれる」、「上司は細かいことを云わず何もかも任せてくれて、責任は取ってくれる」という姿が浮かび、このような名コンビで仕事を進めると、随分と大きな事業も推し進めることができた、という図ですかね!?

 それと明治の人の腹のくくり方というのは、きっぱりしてますね。まだ江戸期の武士の心が残っていた時代なのでしょうね。今の時代の政治家にはないものですね。

 みなさんは、どう思われますか?

◆文中 *--------*の箇所は、司馬遼太郎「坂の上の雲」からの引用部分です

08-2-27記
伊達に住む 滞在メニュー 伊達移住者の体験記


入会メニュー
最新の移住Q&A

注目の移住Q&A


Copyright © 2006-2017 upDate inc. All rights reserved.

『北のスロウライフ』(きたスロ)は北海道伊達市への移住を考える方への情報サイトです。北海道への“移住”や“定住”をキーワードに地元情報発信する会員とやりとりをしたり、同じ目的の会員同士がつながれるような「使える」情報サイトを目指しています。 (2015年から個別対応のため休止中) 地図や温泉、観光、スキー場、ツアー、お土産、居酒屋、高速道路等の情報もあります。 兄弟サイトの北海道伊達市地域生活情報マガジン『むしゃなび』(武者ナビ 伊達 伊達市武者なびも)もよろしくお願いします。伊達市ポータルサイト(伊達ポータルサイト だてしぽーたるさいと だてぽーたるさいと)としてご利用下さい。伊達市は、伊達武者まつり等で有名な武者が開拓した街です。 北のスロウライフ(スローライフ すろーらいふ すろうらいふ きたのスロウライフ 北のスローライフ きたのスローライフ きたすろ 北スロ きたスロ キタスロ) ほっかいどう ホッカイドウ 移住 定住 伊達市 伊達 胆振 西胆振 室蘭 登別 有珠 有珠山 洞爺湖 洞爺湖町 洞龍 とうろん 温泉 ポータルサイト 北海道 道南 道央 有珠山 洞爺湖 噴火湾 北の湘南 お土産 御土産 おみやげ オミヤゲ 飲食店 飲みや 飲み屋 夜 ショッピング 遊び あそび 遊ぶ 遊ぶ 学ぶ まなぶ 買物 買い物 かいもの 海産物 魚介類 海 うみ 潮 しお 建築 建設 家 一戸建て アパート マンション 不動産 賃貸 土木 伊達市 ナビゲーションシステム ホテル ほてる 旅館 宿泊 泊る とまる 観光 かんこう カンコー 特売 セール 安売り クーポン イベント インフォメーション プレゼント 賞品 商品 移住 長期滞在 エリア 限定 田舎暮らし 田舎ぐらし いなかぐらし 遺跡 歴史 まつり 祭り イベント コンサート 伊達紋別駅 商店街 だてもんべつ 海 山 自然 体験 移住体験 中長期滞在 体験移住 体験メニュー 移住No.1 移住ナンバー1 地方に暮らす 地方生活 スローライフ すろーらいふ 噴火湾 豊かなくらし 豊かな暮らし マチづくり まちづくり 北海道観光 滞在型観光 ウィークリーマンション 貝塚 アイヌ文化 アイヌ 善光寺 zenkoji 有珠善光寺 うすぜんこうじ 開拓 武士開拓 伊達邦成 伊達 邦成 亘理藩 羊蹄山 有珠山 有珠山ロープウエイ 昭和新山 火まつり 火祭り 洞爺湖 洞爺温泉 室蘭 伊達やさい 伊達野菜 むしゃ 武者 むしゃまつり 武者祭り 武者まつり 団塊世代 団塊の世代 WICC